音楽の話題 (2025/4/26更新)

個人的な考えを掲載していきます。私宛に寄せられた質問についての回答も含みます。
古いものは適宜削除していきます。



● 演奏・学習関係

楽曲分析(1)
暗譜演奏
ピアノ指導の内容
楽語の理解
ピアノ指導の内容(その2)
コピー譜の使用について
楽曲分析(2)


● コンサート関係

2026年の演奏会(修正)
コンサートの意義


● 音楽一般

音楽科教育についての素朴な疑問
音楽を行う目的は?
クラシック音楽の品格
ピアノ調律


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楽曲分析(1)
   高校、大学で習った時のこの学問は、先生の講義を聴いたり楽書講読などで知識を得るということに過ぎなかったのですが、若い人たちに何かを教える立場になってからは自分で考える必要が生じました。本には載っていないことも多く、書いてあったとして時々疑問もあるからです。分析の方法については高校時代にある作曲の先生から習ったことが今でも役に立っています。その方法とは、ショパンの楽曲を使って楽式、和声、ピアニズムの形など様々な分野の学問を総合して行うものでした。これを受け継いでいるつもりですが、和声の知識など時々怪しくなっているかもしれません。それで和声学の本は何度も読み返しています。最近考えたこととしてはべートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」第1楽章の第2主題を多くの人が「第29小節から」としていること(『べートーヴェン事典』『ZEN-ON SCORE べートーべン  ピアノ協奏曲第4番』の解説など)。古典派の作品でよくみられる第2主題が5度上の調ということを考えると第119小節の弦楽器に現れる主題が相当するのでしょうが、これは「新しい主題」「推移」などということのようです。第29小節の旋律を「間奏主題」としているのは属啓成『べートーヴェン 作品篇(音楽之友社)』で、第119小節からを「第2主題を正規のニ長調で」としています。そしてその前のピアノに現れる変ロ長調のエピソード(第105小節以降)とともに「この二つの主題は、ソロとオーケストラの特性を生かした併立する第二主題で、両者をひっくるめて第二主題群とみられる」としています。こちらの考え方が私にとっては腑に落ちます。この点について、べートーヴェンがしばしば用いた「見せかけの第2主題」という考え方(音楽之友社編集・発行/ポリグラム株式会社発行『べートーヴェン大全集4』解説)を参考にしながらも考えてみました。それとブラームスの「ピアノ三重奏曲第3番」で第2主題のフレーズ構造がよく分かりません。8小節構造になっていないのではないかというところまでは分かっているのですが結論はまだ出ていません。いずれにしても「作品を作った作曲者の気持ちに迫るように」という先生の言葉は今でも心に残っています。
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「演奏家」とは?
   高校生になった頃、ピアノの先生から「演奏家になることを目指しなさい」と言われたことをおぼえているのですが、その後の経験から「演奏で生計を立てる」ことのできる人は大して多くないことが分かりました。情報が多くなった現代,、コンサートの意義も昔とは違ってきていると思いますし、CDショップなども少なくなっています。演奏家になろうとしても非常に難しくなっているように思います。ところで、若い頃によく電話で「仕事を引き受けてもらえませんか」という依頼がありました。日本の現状なのかもしれませんが、詳細(報酬の額、練習の回数など)を伝えられないことが多く、断ることが多かったのを覚えています。先方は「意外だ」という反応が多く、「報酬が入る仕事なのになんで引き受けないのか」という言い方をされたこともあります。こういうことについては現代ではこんなサイトなどもあり、かなり人々の意識も改善されてきていると思います。 1曲演奏すると言ってもその場で簡単にというものではなく、責任をもって準備する必要があるというのが普通だと思うのですが、これがなかなか理解されないように思っています。「演奏家」という職業が現実的には存在するのかしないのか、よくわかりません。
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音楽科教育についての素朴な疑問
   ある小学校の授業を参観に行った時のこと、授業を離れて廊下を歩いている際にあるご婦人に質問をされました。どうも私がその学校の教員だと思われたようなのですが、内容は以下のようなものです。
・ 音楽の授業だが、なぜ机と椅子を使わないのか
・ 身体表現が大事だというのは分かるが、それなら体育のように校庭あるいは体育館で行うべきではないのか
・ 床に座って何かを書かせるというのは衛生上よろしくないがどうなのか
まったく同感でしたが私はその学校の教師ではないため、「お伝えしておきます」というくらいしか言えませんでした。この話をある音楽教育の先生に伝えたところ、ある程度理解してくださる人も若干いたのですが、「そんな意見がでるとは信じられない」という声も多くありました。たしかに楽譜を読めない、書けないという児童生徒は多くなっていると聞きますがこういうことと関係があるのかどうかは分かりません。音楽教育業界から引退した今となっては、よい教育が行われることを祈るばかりです。
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今後の独奏活動について
   マネジメントに依頼する形のものはもちろん別ですが、個人的な「連続リサイタル」などは基本的に私が一人で企画・運営してきました。その方法について最近は限界を感じています。理由は以下です。
1. 広報やチケット販売などはインターネットを用いていたのですが、電子メールは届いたことの確認ができないことが不安です(電話・Faxだとそういうことはない)。そして当日になってからの問い合わせということもある。この場合、練習中、リハーサル中などでは対応不可能です。
2. 会場がなかなか予約できない問題。2023年のリサイタルはキャンセル待ちをして土曜日が取れました。平日の夜には行わない方針なので、土曜・休日の予約を何とかしないといけません。
今後どうするかについては現在考え中です。伝統的な「リサイタル」形式でない何らかの形での演奏を考え中です。2024.11.20
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暗譜演奏
   古典派時代くらいまでは暗譜演奏はピアニストの義務などではなく、楽譜を置いて演奏していたのはどなたもご存じのことでしょう。現代ではこの方法が復活しつつあるようで、論文などでもこれについて書いている人を知っています。演奏の方法について、私が何かを言うつもりはありませんが、個人的には、独奏の場合は暗譜演奏をするべきだと思っています。それは、入試やコンクールでは暗譜演奏が課されていること(指導者も実践すべきだということ)、そして自分の演奏の集中度が違ってくるからです。例えばモーツァルトのピアノソナタ KV284を勉強している時、第2楽章のロンド主題は少しずつ変化するのがなかなか覚えられず苦労しましたが、ご覧のように自分で譜面に書いてみることで覚えられたという過程があったのです。こういうことを経て演奏が安定させる訓練を子供のころから受けて来たので、という言い方しかできないのですが、暗譜をするという努力は私にとっては必要だと考えています。

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「音楽基礎能力指導」の難しさ
   ある音楽家から勧められて標記の指導を始めたのですが、諸事情からいったん中止しています。というのは、現代ではこういう指導にどのくらい価値を認めてもらえるのか分からないこと、そしてなかなか継続して指導を受けてもらえないということが理由です。入試で聴音を課題とする大学はかなり減ってきているようですし、何もそんなことにお金をかけなくても、という考え方の人は多いように思います。どこかで書いたような気もしますが、現代は「費用対効果」の考え方で効率よく結果を出すことを求める人が多いと思いますし、地道な音感教育は理解されないのかもしれません。しかし、自分の来た道を振り返ると、(天才は別として)能力を向上させるためには、基礎訓練のためにある程度の時間と費用が普通はかかるものだと思うのですが、いかがなものでしょうか・・
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ピアノ指導の内容
   若い頃はテクニックを教えることのみが大事だと考えていた時期があります。難しい作品を演奏しているが全然弾けていない、というような人に「この曲の民族性についてはどのように思われますか」などと聞かれても何か違う、としか思えなかったものでした。どこかで書いたようにも思いますが私のところに習いに来る人は音楽大学の受験、コンクール等での成果を求める人がほとんどだったからです。しかし最近は少々考えを変えています。別に全員が専門家になる訳でもないと考えれば、勉強の方法は様々であっていいでしょう。もちろんご本人の考え方次第ということはありますが、ピアノ演奏をきっかけに作品構造の勉強をしてもいでしょうし、音楽史の勉強につなげてもいいと思います。これは私が大学で教養教育を担当するようになってから気付いたことです。そのため、音楽史、楽式論、和声などの勉強は続けてきました。自分の楽しみだけのために演奏するのだって構いません(もちろん楽譜を正しく読む力は必要ですが)。ところで最近の駅ピアノを見ていると、子どもの演奏を親が撮影しているような光景をよく見ます。弾いている人は楽しいのだろうか、と思いながら見ているのですが、日本という風土を考えるとある意味で理解できる反面、何だか音楽の本質とは違うような気がしているのです。駅ピアノといっても色々で、私がよく利用するある駅では、ピアノの近くで別の音楽が流れていることが結構気になります。日本の音楽文化もまだまだだなあという感じもありますね。
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楽語の理解
   べートーヴェン関係の本を読んでいて、ピアノソナタ第4番のフィナーレ最後に出てくる装飾音のことを「acciaccatura」と書いてあるのを発見。 日本の音楽辞典を見ると「短前打音」のことと書かれているものが多いのですが、私は、例えばスカルラッティなどの作品で和音と同時に奏される非和声音を指すものだとばかり思っていました。 また、アルペッジョの奏法としてはバッハに「イギリス組曲第1番」のサラバンドに例があります。 調べてみると「それまで短いアッポッジャトゥーラと認識されていた短前打音にこの語が混用されるように」なったらしい(Wikipedia)。本当でしょうか。 Oxford Dictionary of Music を見ると「A species of grace note.indicated by a small note its stem crossed through,」と書かれていましたのでやはり短前打音という理解で良いのでしょう。ただ、 Harvard Music Dictionary では 「通常の音とともに、隣の音(通常は下の2度音)を演奏し、その音を「鍵盤が熱いかのように」(ジェミニアーニ)すぐに放す」とあるので私が知っていたこの語の意味が書かれています。フランスでの奏法についても記載がありました。 さらに「この語の誤った用法については appoggiatura を参照せよ」とありました。全部は引用しませんが「19 世紀には前打音の扱いにさらに変化がもたらされた。長い前打音は通常の記譜法に吸収され、短い前打音は符尾に1 本の線が引かれた小音符で常に示され、装飾音符または (誤って) *acciaccatura と呼ばれた」とあります。現実的にアッチャカトゥーラが短前打音という意味で用いられるのは分かりましたが、個人的には Harvard に書かれている方が学術的のように思います。 このように、楽語は時代とともに変化してきているので注意が必要だと思っています。
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音楽を行う目的は?
   親しい仲間にもこういうタイプの人がいるので一概に否定はできませんが、とにかく今やっていることがどんな現実的結果(効果)につながるのか、ということをやたらと気にする人がいます。例えば私が楽書を翻訳しているというと「いつ本を出すんだ」「いくら儲かるんだ」と聞いてくるような人。 本質的にこれが好きではありません。日々の生活を送るためには仕事をまじめに行っていれば十分と思っており、趣味・楽しみでやっていることにまで「費用対効果」の考えを持ち出されては息が詰まってしまいます。音楽を行う目的、というのが結構難しいところで、「好きなことをやって生活できていいですね」という言い方をされると、そんな簡単なものではないと言いたくもなります。仕事として行う音楽は決して「楽しい」ものなどではなく、現代の人達がとにかく「楽しみたい」ということには個人的には大きな疑問符をつけたくなるのです。私の専門分野である演奏には責任がついて回ると思っているので、作曲家たちが残してくれた作品の内容を聴衆に誠実に伝えられるかということばかり考えています。という訳で、仕事として行う音楽と、趣味として行う音楽に分けて考えています。そう言えば、現在「ピアノ演奏研究会」を続けていますが、かつては私のところで「勉強したい」という音楽家・ピアノ教師の方々は結構いたものです。それがなぜひとつのグループしか残っていないのか。それは来る人達の目的が「コンクールに勝つための方法」であったり、「芸術は自由なんだから何やってもいいんですよね」という考え方の人達ばかりだったためといって良いでしょう。前者は私とは根本的に考えが違いますし(勝つことのみを目的にするなら入賞できなかった場合どう考えるのかという問題が残る)、後者は「研究」する必要はないと思われます(単に自説を認めて貰いたかったのかも)。他者からは分かりにくいかもしれませんが、私にとっての音楽そして音楽の勉強は、例えば大学の授業や演奏指導、講演会などを行う場合には念入りな準備が必要であることから分かるように仕事の一部であり、翻訳やCD鑑賞などだと趣味の一部であるというように思っているのです。

クラシック音楽の品格
   私にピアノを指導してくださった恩師は、しばしば「演奏会は厳粛なものだ」とおっしゃっていました。これは例えばアルトゥール・シュナーベルの演奏姿勢を思い起こさせるものがあります。聴衆に媚びずに作品の価値を追求する姿勢と言えるでしょうか。ところでクラシック音楽界で気になることとして「曲名の変な省略」と「替え歌」があるのですが、どちらも好きにはなれませんし、一言で言って品がないと思います。後者の関連ですが、学生時代に指導を受けたソルフェージュの先生がよく言っていた「5連符を”カツライス”などと言葉をつけて読むのがいいとする人がいるが賛成できない。なぜなら5連符がくると必ずカツライスを連想してしまい、その音楽と関係なくなってしまうからだ」という言葉を思い出します。知人の音楽家にもこの替え歌的読み方を行う人がおり、そのイメージがあまりに悪いものなので名曲が「聴きたくない曲」になってしまったことが何度もあります。こうなるともはや私にとっては害毒でしかありませんね。とにかく音楽は余計な価値観を付加しないで聴きたいものだと思っています。

2026年の「企画演奏会」
   以前決めた企画を見直すこととしました。というのは独奏及びデュオ(連弾)という企画はどうもテーマが薄れるのではないかという指摘がある友人からあったためです。確かに、以前東京の某ホールで前半が独奏(譜面あり)、後半が連弾(交響曲の編曲)という演奏会を聞いたときにそれを感じました。デュオの場合、たとえば前半と後半でパートを替わるなどした方が面白いように考えます。今回、前半を独奏、後半が連弾とした場合、以前考えていた独奏を半分にすることになり、落ち着きのない内容になるような気がしました。曲目を相談した友人には申し訳ないことをいたしましたが、結局、独奏のみの演奏会という方向で考えようかと思っています。

ピアノ指導の内容(その2)
   「最近の音大生はエチュードを勉強しなくなった」という話を聞いたことがあります。技術習得のためにエチュードを勉強するのは当然だと思っていたのでこういう話は意外でした。昨今のピアノ教室でもエチュード指導をしない先生が多くなっているという声をよく聞きますが本当でしょうか。そう言えば私の知っているある学生で、反復音の弾き方、トレモロの弾き方などを習ってこなかったという人がいました。それではピアノ指導の時間に何を教わってきたのかな、という気がします。指使いにしても「楽譜の指使いを守りましょう」という指導なら誰でもできるのであって、なぜこの指使いになるのか、ということを考えられるようになるのがピアノの勉強で大事なことでしょう。そして合理的な奏法を学ぶこと。さらに正確に楽譜を読めるようになるための基本的なソルフェージュの訓練。こういう「基本」を習得してもらい、早い時期に独り立ちできるように行う指導が理想だと思っています。そのためには中級までにエチュードをしっかり練習することが大事だと思うのですがいかがでしょうか。

コピー譜の使用について
   著作権法第30条によれば「個人的にまたは家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用することを目的として、楽譜などのコピーをその使用する本人が行う場合には、著作権者の許諾を受けずに著作物をコピーすることが認められ 」るということなので、自分で練習する際にコピー譜に沢山書き込みをするということをよく行っていますが、最近どうも違和感を覚えています。それは演奏は暗譜で仕上げることを目標としているからで、例えば譜めくりの回数が少なくなるなどの理由で4〜5頁を広げて練習すると、楽譜を視覚的に覚えることに難しさがあるように感じます。譜めくりが面倒でも、2ページずつを見ながら演奏している方がよいということに気づきました。そしてA4サイズのコピー譜だと通常の楽譜で用いられる「菊倍」サイズより小さいということもあります。これは私が古い時代の人間だからということもあるとは思いますが、楽譜を制作してくださった人達の気持ちがこちらに通じるような気がするのです。問題は、長年使用していると製本が崩れてくることで、これは特にハンガリー、チェコ、ポーランドなど東ヨーロッパ諸国で作られた譜面に多く見られます。逆に国内版の楽譜だと製本がしっかりしすぎていて楽譜が開きにくい場合もあり、なかなかちょうど良い楽譜というのも難しいところです。

ピアノ調律
   ピアノを演奏する人にとって大事なことのひとつに調律師をどう選ぶかということがあると思います。ツェルニーの『ピアノ演奏の基礎』によれば「成人の演奏家であれば、自分で調律したり弦を張ったりすることが出来れば、言うまでもなく便利です」とあり、この言葉からは昔からピアニストは調律師に頼っていたことが分かるのですが、中には自分で調律をしたり、簡単な調整程度ならできるというピアニストもいることを知っています。それができれば言うことないと思うのですが、なかなか難しいでしょう。ただ、「調律」師なのだから音合わせしかしない、という考え方には疑問で、例えば『広辞苑第七版』だと調律師とは【楽器の音の高さを特定の標準音と音律に従って整えること。また、楽器を演奏にふさわしい状態に整備すること。調音。整律。「——師」】とあるので、一般的な用語でいう「整調・整音」も仕事に含まれると言えます。今まで会ってきた調律師はいろいろですが、現実的にはリスト作品などで出てくるグリッサンドが弾けるようにしてもらえないと不満足、ということは言っておきたいと思います。それと、頼まないのに特殊なタッチに変えてしまったり、ハンマーに針を勝手に入れたりする仕事をする人は要注意だと思っています。私は音が少し合わなくなってきた程度であれば自分で直しますし、ハンマーと弦の調整も自分で行っていますが、さらに細かい作業については信頼できる人にお願いするしかありません。それでも年に1〜2回程度来てもらえば十分なので、その昔、ほぼ季節に1回頼んでいた頃はいったい何だったのだろう、と思い返すことがあるのです。

コンサートの意義
   高校生の頃、何人かで喫茶店に行った時のこと。同学年の友人で「コンサートには行かない」と公言していた人がいて、先輩から「それは間違っている」と言われていたのをよく思い出します。自分が演奏家を目指しているのなら演奏会の雰囲気などを知らないで演奏できるのは変だ、というような話だったと思うのです(がよく覚えていません)。現在考えていることは、クラシック作品は一度聴いただけではその価値が分からないことも多いので、CDなどの鑑賞だと気になった箇所を何度も聞くことができるし、楽譜を見ながら聞くこともできるという意味ではライヴの演奏会より良い点があると思っています。どこかで書いたかもしれませんが、平日夜のコンサートは帰りが遅くなって翌日の仕事に影響が出るというのも問題です。当世流行している「プレトーク」もあまり好きになれないし、座席により自然な鑑賞ができないという可能性もある。それなら自宅でオーディオ鑑賞をしていればよいかと言えば、簡単にそうとも言い切れないのです。やはりコンサートならではの感動は素晴らしいものがありますし、ホールで聴く音はオーディオとはまったく違ったもので、これを知らないで自分の演奏などできるはずもない。このように考えています。

楽曲分析(2)
   ある作品の形式を知りたいと思って解説書を読むと、単に「ソナタ形式」と書かれているのみ、などということがよくあるのですが、もう少しその曲の特徴について触れてほしいと思うこともあります。例えばモーツァルト「ピアノ協奏曲第24番KV491」の第1楽章で、第2主題部が終わった後に第1主題が変ホ短調で出るところ。最初聞いたときはここが展開部だと思って聞いたのですが、実は第265小節からが展開部であること(フィリップ・ラドクリフ『BBC・ミュージック・ガイド・シリーズ5 モーツァルト/ピアノ協奏曲』)。このような手法が他にあるのかないのか、などを書くと面白いのにという気がするのです。それと、作曲家それぞれの形式の扱い方。例えばべートーヴェンのロンド形式は「ピアノソナタ第19番 ト短調 Op.49-1」「ピアノソナタ 第16番 ト長調 Op.31-1」などに見られるように基本とはかなり違ったものなので、そういうことを知るべきだと思っています。作品への理解が深まるばかりでなく、暗譜にも役に立ちます。

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